入試に関するお知らせ

9月27日(木)、平成24年度前期終業式が行われました。

2012年09月27日(木)

校長先生のお話は以下の通りです。

 

 前期が本日で終了し、通知簿が渡されます。期末休暇中に前期の己を良く振り返って下さい。9月1日の授業始め時、時間の関係でお話しできなかったことを話します。

 夏休み岩手県の宮古市に参りました。東日本大震災の被災状況と復興状況をみるためです。そこで感じたことは、大震災から一年半経ちましたが、東日本大震災を忘れてはいけないということです。

 岩手県の海岸は、リアス式海岸で山が海に迫っています。道路は海岸に沿って平行に走っています。片側には狭い砂浜の先に海が広がっています。反対側には野原があり、その先が山になっています。草の間に灰色のコンクリートが見えます。よく見ると家の土台です。家が津波で流されましたが、土台は流されませんので長方形の土台が残っているのです。しばらく行くと小さなプレハブ小屋が建っていました。床屋さんです。周囲に家はありませんが、営業を始めたのだと思います。目的地の田老町に入りました。田老の田は田んぼの田、田老の老は老人の老です。田老町は万里の長城と呼ばれたスーパー堤防で有名な町です。

 この地域は過去、江戸時代・明治・昭和と三度大津波に襲われました。江戸時代は村が壊滅状態になりました。明治の時は、一戸残らず家が流され住民の八割の方が亡くなりました。昭和の津波では住民の三割の方が亡くなりました。高台への移転を考えましたが、平地がないこと、主産業が漁業ですから海から遠ざかると暮して行けないということで、10メートルのスーパー堤防を作りました。10メートルというと一号館3階の窓の高さです。10メートルの壁に囲まれて暮らすことは辛いことだと思います。海の近くにいながら海は全く見えません、高い壁に囲まれているので圧迫感があります。その様な悪条件の中で暮らし続けたという事は、ご先祖様の代から暮している地域への愛着、共に暮らしている仲間との絆の強さだと思います。

 10メートルの堤防は海側と陸側に二本ありましたが、今回の津波で海側の堤防は跡形もなくなっていました。陸側の堤防を越えて津波が町を襲いました。陸側の堤防は寸断されていますが、残っています。堤防に登ってみました。先ず目に入ったのは堤防の上に建っていた鉄製のポールが90度以上に折れ曲がっていたことです。街灯か防災用のスピーカーがのっていたでしょうが、頭がちぎれていますので分かりません

 堤防の上から海側をみると、港の工事が行われています。砂浜に小さなプレハブ小屋が沢山建てられています。反対の陸側をみると、町があったあたりは一面の野原です。草の間にコンクリートの土台が見えます。鉄筋コンクリートの廃墟となった建物が3棟、ぽつんと建っています。1階2階部分はコンクリートの柱だけが見えます。遠く山の斜面にはお墓やお寺や学校の校舎が見えます。町のはずれにガレキの山が築かれパワーショベルが作業をしていました。

 この町の小学生で亡くなった生徒は1名だということです。小学校が避難所になっていました。避難所の小学生は全員無事でした。亡くなった1名はお家の方が迎えにきた生徒だそうです。津波はスーパ-堤防を乗り越えてきましたが堤防が時間を稼いでくれたことと、普段から「津波てんでんこ」で自分の身を守ることが身についていたので被害が少なかったのです。

 復興は遅れています。岩手県内のガレキ処理状況は8月末時点で20%です。1年半たった今でも80%のガレキは片付いていません。

 9月になり宮古市観光協会へ電話をしました。岩手県には450万トンのガレキが残っていて普通に処理していたら11年かかるということです。更に今後100万トンのガレキが出るということです。家の土台や廃墟となったコンクリ-トの建物から出るガレキです。町ぐるみでの高台への移転も考えられていますが、宅地を造成し、道路・水道・電気等のインフラを整備しますので、5年から10年かかると言われています。旧市街地に移ろうと考える人もいて調整には時間がかかりそうだということです。

 嬉しいこともありましたと観光協会の方が教えてくれました。港が使えるようになったことです。砂浜に建てられていたプレハブ団地はわかめの加工場だそうです。漁業がおこなえるようになると人々に笑顔が戻ってきますとおっしゃっていました。電話の最後で、神奈川県でも大地震の危険がありますからお気をつけて下さいと、逆に励まされました。

 東日本大震災を忘れてはいけないのです。被災地では、皆さん不自由な生活を続けられていらっしゃいます。ガレキの処理は他の県が受け入れなければ復興出来ないのです。そして、いつ我々を大地震が襲うか分からないから、忘れてはいけないのです。